若宮丸

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若宮丸(わかみやまる)は、仙台藩指定の廻船問屋米沢屋平之丞の持ち船で、24反帆、800石積みの千石船[1]

概要[編集]

寛政5年(1793年)11月27日、津太夫儀兵衛太十郎[2]左平平兵衛市五郎吉郎次左太夫清蔵銀三郎善六辰蔵民之助八三郎巳之助茂次郎の16名が乗り組み、江戸に向け石巻湊(石巻港)を出帆した。積荷は仙台藩御用米の2332俵(1332俵や332俵という説もある)、他に木材。

途中、塩屋崎沖で暴風に遭い、舵が破壊され、北北東へ漂流、およそ半年後の寛政6年(1794年)5月10日に当時ロシア帝国が実効支配するアリューシャン列島の孤島(ウナラスカ島との説がある)に漂着する。乗組員が艀で島に上陸すると、本船の船体は、浪にくだかれて姿を消した。

遭難時の船員[編集]

遭難時の若宮丸の船員は以下の通りである[3][4]。なお、青色で示した人物は死亡もしくは文化9年(1812年)時点での消息がはっきりしていない人物で、赤色で示した人物は帰国を果たした人物である。

役職 氏名 遭難時年齢 出身地 備考
沖船頭
船長
平兵衛 31 陸奥国牡鹿郡石巻 寛政6年(1794年)6月8日、アリューシャン列島で病死
楫取
操舵手)
左太夫 51 陸奥国宮城郡浦戸諸島寒風沢島 享和3年(1803年)3月8日、ペテルブルクに向かう途中、イルクーツクから200km地点で乗り物酔いにより脱落し、イルクーツクに引き返す。その後の消息は不明。

(事務長)
儀兵衛(儀平) 32 陸奥国桃生郡深谷室浜 ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に拝謁し、帰国を希望する。世界周航後、文化元年(1804年)9月6日に長崎に到着し、文化3年(1806年)2月下旬に帰郷。その年の9月3日に病死。
船親父
(甲板長)
吉郎次(吉郎治) 67 陸奥国牡鹿郡小竹浜 寛政11年(1799年)2月28日、イルクーツクで病死
水主
船員
津太夫 49 陸奥国宮城郡浦戸諸島寒風沢島 ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に拝謁し、帰国を希望する。世界周航後、文化元年(1804年)9月6日に長崎に到着し、文化3年(1806年)2月下旬に帰郷。文化11年(1814年)7月29日に病死。
左平 31 陸奥国宮城郡浦戸諸島寒風沢島 ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に拝謁し、帰国を希望する。世界周航後、文化元年(1804年)9月6日に長崎に到着し、文化3年(1806年)2月下旬に帰郷。文政11年(1829年)4月12日に病死。
民之助 30 陸奥国宮城郡浦戸諸島寒風沢島 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化し、ミハイル・ジェラロフと名乗る。そのため、ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に拝謁した際には残留を希望する。その後の消息は不明。
銀三郎 29 陸奥国宮城郡浦戸諸島寒風沢島 享和3年(1803年)、ペテルブルクに向かう途中、ペルミで病気にかかり、イルクーツクに引き返す。その後文化9年(1812年)の時点では、病気で寝たきり状態となっている。
茂次郎 29 陸奥国牡鹿郡小竹浜 ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に拝謁し、残留を希望する。その後ペテルブルクで洗礼を受けてロシアに帰化し、文化9年(1812年)の時点ではイルクーツクにあった露米会社の事務所で働いている。
市五郎 29 陸奥国牡鹿郡石巻 寛政8年(1796年)8月、ヤクーツクで病死
八三郎 25 陸奥国牡鹿郡石巻 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化し、セミョン・ゴロヴィッチ・キセリョフと名乗る。そのため、ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に拝謁した際には残留を希望する。その後の消息は不明。
善六 24 陸奥国牡鹿郡石巻 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化し、ピョートル・ステパノヴィッチ・キセリョフと名乗る。そのため、ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に拝謁した際には残留を希望する。世界周航にもロシア側随員と参加するが、享和4年(1804年)8月18日にペトロパブロフスクで下船する。
その後は継右衛門中川五郎治などロシアに送られてきた日本人の世話をするが、文化10年(1813年)夏の遣日使節にロシア側通訳として参加し、9月27日に箱館を訪問する。同年11月3日にロシアへ戻り、イルクーツクで日本語教師となる。文化13年(1816年)頃に病死。
太十郎 23 陸奥国桃生郡深谷室浜 ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に拝謁し、帰国を希望する。世界周航後、文化元年(1804年)9月6日に長崎に到着し、文化3年(1806年)2月下旬に帰郷。その年の4月1日に病死。
辰蔵 22 宮城県牡鹿郡石浜 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化し、アンドレイ・アレクサンドロヴィッチ・コンドラトフと名乗る。そのため、ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に拝謁した際には残留を希望する。その後文化9年(1812年)の時点では、トムスクの馬車駅で働いている。
清蔵 不詳 陸奥国牡鹿郡石巻 享和3年(1803年)3月8日、ペテルブルクに向かう途中、イルクーツクから200km地点で乗り物酔いにより脱落し、イルクーツクに引き返す。その後文化9年(1812年)の時点では、アンガラ川バイカル湖を行き来する船乗りとなっている。

(船員見習い)
巳之助 21 陸奥国牡鹿郡石巻 ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に拝謁し、残留を希望する。その後ペテルブルクで洗礼を受けてロシアに帰化し、文化9年(1812年)の時点ではアンガラ川とバイカル湖を行き来する船乗りとなっている。

参考文献[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]